Camino Primitivo(古代の道/プリマティボの道)巡礼記録

はじめに

以下の記事は、2024年3月18日から30日までの13日間をかけて、サンチャゴ・デ・コンポステラに至る巡礼路の一つ、Camino Primitivo(古代の道/プリマティボの道)を踏破した経験をもとに、今後同じ巡礼路に挑戦したい!と考えている方々の参考になりそうな情報を、主観まみれを承知でまとめたものです。今の時代サンチャゴ・デ・コンポステラ巡礼に関する情報はネット検索すれば豊富に入手することができますが、日本語で、「古代の道」について、巡礼のリアルな実態をまとめた記事はほぼ存在しないのではないかと思います。そもそも日本人巡礼者はかなり少数なうえ、選ばれるのは「フランス人の道」等であることが多いからです。

そこで本記事では、特に「古代の道」に密着した情報を、(これは個人的な関心に由来する部分が大きいですが)各地の文化・歴史に関するトリビアを織り交ぜながらまとめる方針を取ります。その他の点で有益な情報源としては、以下の二つのサイトを挙げておきます。

なぜ「古代の道」か

軽く調べれば分かる通りサンチャゴ・デ・コンポステラに向かう巡礼路は無数に存在するものの、巡礼者の8割は「フランス人の道」「ポルトガル人の道」「北の道」を選び、「古代の道」を行くのは全体の6%ほどと言われています。所要日数としては12-14日間と比較的手頃であるにも関わらずなぜこの道がそこまで人気がないかというと、やはり山道ばかりで過酷だということ、同時に道中に都市や観光地と言える場所がほぼなく不便だということが大きいのではないかと思います。実際同日に巡礼を始めたグループのなかで、途中で何人も脱落者が出ました。

しかし、この過酷さ・不便さこそが「古代の道」を推したい理由でもあります。確かに危険を感じる場面はありますし足腰もやられますが、逆に言えばそうしたスリルは日常的なハイキングや登山ではなかなか味わえない貴重な感覚ですし、それを乗り越えた先で出会う雄大な自然には一層胸に沁みるものがあります。いくら道なき道のように思えても既に先人たちが通って行った道ではあるので常に先が保証されているというのもミソです。また、飲み食いさえも不自由な生活というのは都会の分業体制に慣れ切った私たちからすれば一種のタイムトラベルのようなものですが、他の巡礼者と協力しながらそうした困難を乗り越えていくのには何にも代え難い楽しさがあります。お国柄と言って良いのか現地人も陽気で気さくな人が多く、特に巡礼路で出会ったときには進んで助けの手を差し伸べてくれたりします。

さらに「古代の道」を特別な地位に高めているのは、それがサンチャゴ・デ・コンポステラへの最初の巡礼路であったという事実です。そもそもサンチャゴとはスペイン語で聖ヤコブを意味し、サンチャゴ・デ・コンポステラ巡礼とは、当地の聖堂にある彼の墓を拝まんとするキリスト教徒たちによって継承されてきた慣習。もとを正せば、紀元1世紀に殉教した聖ヤコブの遺体が9世紀にこの地で再発見された際、当時のアストゥリアス王アルフォンソ2世がオビエドから「古代の道」を通ってお参りに行ったことに起源を有します。一見他の巡礼路に比べると荒涼とした「古代の道」ですが、この話を聞くとなんだかロマンを感じられるのではないでしょうか。

準備

行くと決まったら、宿も交通手段も予約する必要はありません。バックパックに最低限の物資を詰めてオビエドの地に降り立つだけです。

…と言って済ませたいところですが、個人的な体験からいくつか注記しておきたいことがあります。

荷造り

基本的には様々なまとめサイトに従えば良いと思いますが、以下の二点だけ強調しておきます。

①軽量・速乾・丈夫を心がけること。二週間、そのバックパックを丸ごと背負って毎日20-30キロの山道を歩き続けることを覚悟のうえ、化粧だとかPCだとか甘ったれたことを言わず、人間的な生活に必要なものだけを詰めましょう。必ずしも宿に乾燥機はなく、あっても有料な場合が多いので、自然乾燥で済むよう衣類は綿を避けポリエステル等を選びましょう。降雨による浸水の危険という点でも、精密機器を持って行く際は慎重に検討してください。

②寝袋とサンダルを持っていくこと(不思議にも他の情報サイトであまり記載がないので、あえて強調しておきます)。寝袋は、最悪の場合の野宿への備えという意味もありますが、特に安上がりの公営アルベルゲではマット以上の設備がないことが多いので毛布代わりに必要です(マミー型・ダウン生地が軽量コンパクトでおすすめ)。サンダルに関しては、アルベルゲに着くと入口で登山靴を脱ぐよう要求されることが多いので、その後建物内を歩き回ったり、軽く外出したりする際に持っておくと便利です。

言語

オビエドやサンチャゴのような大都市ならともかく、「古代の道」上の宿場町では英語はほぼ通じません。少なくともスペイン語での挨拶、レストラン・宿で使う会話表現、数の名詞くらいは覚えておく必要があります(この程度は現地に行ってからでも間に合いますが)。なお、巡礼者間の共通言語は大体英語になることが多いですが、個人的な感覚ではそれに次いでなぜかドイツ語話者の割合が高かった気がします。

旅程

ここからは個人的な体験をもとに、13日間の道程と注意点・見どころなりを紹介していきます。

1日目 Oviedo-Grado (26km)

オビエドは、まさに「古代の道」を通って聖ヤコブの墓に最初の巡礼を行ったとされるアストゥリアス王アルフォンソ2世が首都に定めた街。現在も州都として栄えていて、食糧やら備品やらを追加で調達することもできますし、長旅の前に腹ごしらえをするにも事欠きません。なお、「街」と言える場所は今後10日間ほど(ルーゴに到着するまで)現れないのでこの際しっかり心の中で文明社会に別れを告げておきましょう。

巡礼の出発地となるのは、これまたアルフォンソ2世ゆかりの大聖堂。ルーゴ大聖堂を意識して作られたという内部の美しいゴシック装飾を堪能するには(巡礼者割引後でも)4€差し出さないといけませんが、悪いことは言わないのでここはケチらずいきましょう。巡礼を始めてからいくらでもケチれます。なお、出発前に巡礼手帳(Credencial)を入手しておくのを忘れないでください。道中のアルベルゲでも貰えますが、オビエド大聖堂のスタンプがないと寂しいです。

巡礼の開始に伴って何も手続や儀礼はありません。ただ道標(黄色い矢印や貝殻のマーク)に従って歩き始めるだけです。オビエドの街にいるうちは、地面の上に嵌め込まれた金色の貝殻を追うことになります。扇に例えるなら要に当たる部分が向かうべき方向です。なお、オビエドからは「古代の道」のほかにも「北の道」に合流するルートがあり、ぼーっとしているとミスリードされてしまうので気を付けてください。

最初の方は「これが巡礼…?街の中を散歩しているだけでは?」というような気持ちにもなりますが、20分ほど経つと急に都会を抜けて牧草と家畜に満ちた景色が開けます。この辺りにはアストリアス牛と呼ばれる、茶色い胴体に二本の角を生やした特別な種類の牛がいるので観察してみると面白いです。まだ巡礼仲間をも知らない一日目は心細く長くも感じられますが、マドリードバルセロナのような定番観光地とは全く異なるスペインの田園風景には心洗われることと思います。

グラドはただ道路沿いに建物を並べたようなこぢんまりとした町ですが、安心してください、「古代の道」沿いの宿場町の中ではこれでも大きい方です。初めてアルベルゲに向かうときは緊張もしますが、それまで通りに貝殻の目印を辿るだけで丘上にある公営の建物に簡単に辿り着けます。夜ご飯には近くにあるCafé Exprésがおすすめ。ボリューミーなご飯を非常に安く食べることができ、それまで滞在していた都市との物価の落差を実感させられます。なお、スペインのご飯処にはよくMénu del díaと呼ばれる12€程度のお得なセットがあり、特にしっかり食べたい時に頼むと良いです。

2日目 Grado-Salas (23km)

初っ端から急な上り坂が続きしんどいですが、しんどさそれ自体にも慣れてくるのが二日目。各人がばらばらに歩き始める初日とは違って、同じ宿場から出発する巡礼仲間との会話も折々に楽しみながら歩くことができるので、だんだん精神的な安心感も生まれてくるかと思います。

なお、サラスに辿り着くまで町と言える町はないので、昼ご飯はグラドで調達しておくのが吉です。私はオイルサーディン缶とパンを持っていって鰯サンドにしていました。水に関しては、要所要所で泉なり水道なりがあるので水筒を持っていけばこまめに補給できます(とはいえ水も必要なときに常に現れるとは限りません。こういう不自由を経験させられると改めて普段飲み食いするものの有り難みを実感させられるようになるのも新鮮な感覚で、昔の宗教で水源信仰が多かった訳も分かるような気になります)。

サラスは中世の街並みを残した、御伽話に出てきそうな可愛らしい町です。早めに到着したら、かつてこの地を治めていたValdés Salas家ゆかりの邸宅(現在はホテルに改装されています)や見張り塔を観察したり、もう一踏ん張りして丘の上のサン・マルティン教会を観に行ったりするのも良いでしょう。あるいは町を流れる小川沿いやそこらのベンチに座って、コーヒー片手に旧市街を眺めるだけでもリフレッシュになるかもしれません。なお、Valdés Salas家は15-16世紀にオビエド大学の創設者をも輩出したエリート家系で、注意して歩けば趣向を凝らしたその家紋や大学にまつわる碑文を町中に見つけることができます。

3日目 Salas-Tineo (20km)

町を出て木立に入るとすぐ、Cascada de Nonayaと呼ばれる滝に出会います。古代の道を歩いていると至る所で自然の湧水や小川を目にすることができますが、この滝は特に大きく、なんだか瀬をはやみとでも口ずさみたくなるような、日本の峻厳な自然を彷彿とさせる風情があります。巡礼路から一度外れて往復10分ほど歩かないといけませんが、必見です。

サラスから2-3時間歩かないといけませんが、朝食または道中の腹ごしらえにぜひ寄ってほしいのがポルシレスのFontenonayaというカフェ併設アルベルゲです。私はサラスでスーパーの営業時間内に食料を調達するのを忘れ餓死寸前だったのですが、「Pilgrim Breakfast」という看板に導かれてこの宿に辿り着き、主人の夫婦にもてなして頂けました。それもお代は不問(申し出れば寄付できます)。このケースに限らず、巡礼路では金銭的利得とは無関係のコミュニケーションを享受できる場面が多く、都会の資本主義に染まり切った心が洗われること間違いなしです。

山を登った先にあるティネオは、巡礼路のなかではかなり大きめの町です。古代ローマ時代に鉱業の拠点となったのち、一時イスラーム支配の下に置かれたもののレコンキスタによりアストリアス王国に組み込まれ、13世紀にアルフォンソ9世によって巡礼路の通過地点として指定されたことを契機にますます発展したとか。13-15世紀のフランシスコ会修道院の名残だというサン・ペドロ教会周辺の歴史的地区も一見の価値ありでしょう。因むと、まさに聖フランシスコがサンチャゴ巡礼を行った際、帰りに古代の道を通り、この修道院を聖別したという伝説もあるそうです。この話を聞いたとき、個人的には、行くだけでこんなに大変なのに昔の人は帰りも歩かないといけなかったのか…という呆れを真っ先に覚えましたが。

4日目 Tineo-Borres (18km)

町を出てさらに山を登ってから後ろを振り返ると、草を喰む牛の群れとティネオの街並みの奥に青々とした緩やかな山々が連なる美しい田園風景を臨むことができます。気温の低い朝には特に、下方で霧が立ち込めて雲海のような様相を呈していることもあり、見事です。

なお、古代の道上ではボレスからプエルト・デル・パロの間の区間で二つの道程があり、そのどちらを選ぶかによって4日目の目的地は異なります。基本のルートを選ぶのであればボレスを通過して12キロ先のポラ・デ・アランデを目指しましょう。翌日La Hospitalesと呼ばれる山越えルートに挑戦したいのであればこの日はボレスで止まりましょう(その先は山しかないからです)。このルートは基本のルートより5キロほど短い一方で急峻、しかし晴れの日には息を呑むような絶景に出会うことができます。ボレスに着く頃に翌日の天気予報を確認して判断するのもアリです。なお、La Hospitalesを選択する場合はこの日のうちに翌日分の食糧を調達しておくのを忘れずに。

ところで巡礼路ではいわゆる高床式倉庫を多く見かけます。これはスペイン語ではオレオ(Hórreo)と呼ばれるイベリア半島北部に特徴的な倉庫で、多雨に由来する湿気やら鼠・害虫やらから穀物を守るためにこうした構造になっているようです。とはいえ敵は常に下とは限らないもので、鳥のリーチをも防ぐために倉庫の本体部分は背が低くのっぺりとした形になっているのも面白いところです。

なお、私自身は巡礼者仲間とともにLa Hospitalesに挑むことを決め、ボレスに泊まりました。ここは山上の小さな村で、住宅といくつかのアルベルゲ、一軒のバーしかありません。さらに公営アルベルゲは古代の道のなかでもとりわけ簡素で、水回りあわせて40平米ほどのスペースに10-15人を詰め込むよう作られています。とはいえ景色に関しては文句なしの美しさで、天気が良ければ草むらに座り雲海を見ながらピクニック気分で食事をとるのが最高に心地良くておすすめです。この頃になると、同じ日程で歩いている巡礼者同士が互いを把握し終え、小さな家族のような繋がりが生まれることと思います。語弊を恐れずに言えば人気のない古代の道ならではの温かみです。

5日目 Borres-Berducedo (26km)

語感から予想がつくようにLa Hospitalesとは「病院」を意味し、昔このルート上に巡礼者用の治療施設が複数位置したことに因んで名付けられたものです。とはいえこれらは長い歳月をかけて瓦礫と化し、今となっては本ルートの本質は、ひたすら荒涼とした山峰を登り下りを繰り返すことにあると言えるでしょう。気温・湿度次第では容易に霧が立ち込め、良く言えば中国水墨画のように幽玄な、しかし実際のところは視界を奪い不安を駆り立てる様相を呈しますが、晴れた際には彼方まで無数の山々が峰を連ねる雄大な景色を開示してくれます。巡礼路上では基本的に柵で隔てられた先にいるアストリアス牛たちもここでは荒野でのびのびと休んでいて、まさにヨーロッパの山の原風景と言えそうな眺めがタフな道程の先に待っています。

ところで古代の道上では、複数の鐘を吊るした薄べったいファサードを持つ独特の教会建築にお目にかかる機会が多くありますが(この日通るラーゴのサンタ・マリア教会に加え、2日目のサラスのサン・マルティン教会など)、これは8-10世紀のアストリアス王国で普及した前ロマネスク様式に起源を持つようです。さらに内部装飾にまで言及すれば、この辺りの教会には「偶像崇拝」と怒られかねないようなリアリティを持ったキリストや諸聖人の等身大の彩色彫刻が多く置かれていて、やはり根からのカトリック文化圏なんだなと実感させられます。

タフな一日の終わりに辿り着くベルドゥセドはこれまた小さな村です。原則的に古代の道の宿場町には娯楽や観光地はないので、巡礼仲間とバーに行って格安なグルメと酒を堪能するのが吉といったところ。特にご当地ビールとしてよく出てくるエストレラ・ガリシアをぜひ一度は試してみてください。また、5日も経つ頃には自然に気付いていると思うのですが、スペインのバーやレストランにはほぼ例外なくテレビがあります。現地人の友人いわくサッカーを見逃さないようにするためだとか(真偽は不明)。

6日目 Berducedo-Grandas de Salime (20km)

比較的平坦な道のりで景色も美しい休養デイです。ただ一度だけ、道標に従う限り自ら柵の扉を開けてアストリアス牛の集うフィールドを突っ切らないといけないポイントがあり、「本当にこれで合ってるの?」と不安に駆られますが合っています、突っ切りましょう。見た目こそ闘牛のような牛たちですが、実際はおとなしく向こうから攻撃してくることはありません。とはいえ私は運悪く牛たちが群れで扉を塞いでいるタイミングに当たってしまったため、その脇の有刺鉄線柵をひょいひょい飛び越えて巡礼路に合流しないといけませんでした。巡礼仲間の壮健な兄ちゃんたちが先導してくれたから何とか乗り切れたものの、思い返せばこの旅のなかで最大の危機でした。

後半に差し掛かると山間に広がる青々とした湖を上から臨むことができます。古代の道のなかで最高の絶景です。この辺りには青いロベリアや紫のヘザーなど高原植物も生い茂っていて、どこを向いても目の保養になります。

グランダス・デ・サリメは可愛らしい村ながら見どころも多く、早めに到着して散策するのがおすすめです。特に民族博物館はたったの1.5€の入場料ながら軽く1-2時間は潰せるほど充実していて、アストリア地方の伝統的な建築・工芸品・日用品・食糧品を鑑賞することができます。なかでもマドレニャ(madreña)と呼ばれる爪先と踵の二箇所にヒールの付いた木製のサンダルなんかは、巡礼している間にも要所要所で見掛けるものですが、この博物館ではその製造過程なり男性用・女性用の相違なりが詳しく展示されていて面白いです。そもそもこれは泥道を避けるために考案された靴らしいですが、高床式倉庫に並んで多雨地方ならではの生活の知恵を感じさせますね。

旅もそろそろ折り返し地点、一週間の健闘を讃え合うためにも夜にはぜひLa Parrillaというバーを訪れてみてください。モダンながらユニークな内装にポップな音楽が流れていて、まるで都会に戻ったかのような錯覚に陥ることができます。

7日目 Grandas de Salime-A Fonsagrada (26km)

標準的な道程です。この日のうちにアストリアス地方を抜け、その西のガリシア地方に入ります。これに伴い、巡礼路上の道標が微妙に変わるのに気付かされるでしょう。それまでは単に貝殻と矢印だけが描かれていた石碑に、新たにサンチャゴ・デ・コンポステラへの距離表示が加わります。最初の表示は「166,098km」、旅ももう後半戦です!

私のスケジュールではこの日は日曜日だったので巡礼路上の飲食店が軒並み閉まっていて、目的地目前のMesón Catro Ventosというレストランでようやく食事にありつけました。これは古代の道上では珍しくもお高めのガリシア料理店ですが、値段の分ボリュームも味もしっかり保証されているので少し贅沢したい気分になったらおすすめです。なお、私もこの頃になって初めて気付いたのですが、巡礼路上の大半の飲食店では頼めば巡礼手帳にスタンプを押してもらえます。記念に是非。

ア・ファンサグラダも古代の道のなかでは標準的な(or少しだけ大きめの?)規模の宿場町といったところです。この町含め、ガリシア地方に入ると名前にプルペリア(pulpería)という言葉が入るレストランを頻繁に見かけるようになりますが、これは地元でプルポ・ア・フェイラ(pulpo a feira)と呼ばれる蛸料理を提供する店を意味します。オリーブオイルとパプリカパウダーで味付けされるのが定番で、お酒のおつまみには持ってこいです。巡礼で酷使した筋肉のための蛋白質補給にもなるかも。

8日目 A Fonsagrada-O Cádavo Baleira (25km)

ア・ファンサグラダには午前7時から開くベーカリーがあるので、朝の腹ごしらえにおすすめ。こちらではコーヒーの中でもなぜかカフェ・コン・レチェ(café con leche)と呼ばれるホットミルクで半分に割ったものが大人気で、パンやケーキとのセットメニューもよく目にします。都会から離れた巡礼路上の飲食店では大体一杯1-1.5€と格安で飲めるのがありがたいところです。

前日と同様特に真新しいことはない道程だと思いますが、目的地直前でかなり急な登り坂が続くので踏ん張ってください。なお、私の場合はこの日から降雨が続き、物理的にも精神的にもしんどい思いをすることが増えました。季節ごとの大まかな傾向はあるものの、スペイン北部は全般的に降雨の多い土地柄なうえ天気予報があてにならないことも多いので、いつ行くにせよ雨対策を含めた準備をしてください。

オ・カダヴォ・ヴァレイラでの夕食には、Restaurante Neiroがおすすめです。一階がバー、二階がレストランになっていて、バーでは飲み物を頼めばサービスでタパスを食べることができますし、レストランでは前菜+メイン+デザート+飲み物(アルコール含む)+食後のコーヒー・紅茶のコースを12€という破格の値段で堪能することができます。ボリュームも味も文句なしです。

9日目 O Cádavo Baleira-Lugo (30km)

かなり長距離ですが、この頃になると平坦な道が多くなるので意外とあっさりいけます(なお、私の場合は朝に雪が降り、冷え込みはしたものの森の中の小径が白銀に染まるさまを堪能しながら歩くことができました)。道中では上述したようなアストリアス建築様式の教会を複数見ることができます。

ルーゴは古代の道の経由地のうちでは最も大規模で、かつ歴史的な街並みの残る美しい都市です。早めに到着して観光のための時間を確保しておきましょう。中心の旧市街を取り囲む市壁はローマ帝国時代に遡るもので、なかでもヨーロッパで最も保存状態の良い例として知られています。それをくぐると今度は中世以来、本都市が巡礼拠点として栄えるなかで作られた様々な石造建築が待ち構えていますが、特に必見なのはサンタ・マリア大聖堂です。12-13世紀のロマネスク様式の骨組みの上にゴシック・ルネサンスバロックといった様々な時代の装飾が重ねられ、軽く見渡すだけでまったく趣向の異なる美術が併存しているのを見てとることができます。なかでも注目してほしいものの一つが大きな聖遺物容器を豪華絢爛な装飾取り囲む異色の主祭壇で、実はこれは聖餐の恒久的展示という昔の教皇によって本聖堂に与えられた特権を顕示するものです。さらには、主祭壇の裏側にある、大きな目の聖母の礼拝堂もなかなか味があるので一見の価値あり。バロック期の作らしいですがどこか中世的な静謐さと素朴さのある聖母像が佇んでいます。なお、こうして後陣に回廊を設けて複数の礼拝堂を横に並べる方式はサンチャゴ・デ・コンポステラの大聖堂とも共通するのですが、それは主祭壇でミサを行っている間にも大量に訪れる巡礼者の通行を促進するための工夫であったようです。

ルーゴでは食事にも買い物にも事欠くことがありません。束の間の文明社会への復帰を存分に楽しんでください。なお、この街に着いた時点でサンチャゴへの道のりは100キロを切ります。巡礼完了後に巡礼証明書(Compostela)を入手するためには、この最後の100キロ区間で毎日2つ以上のスタンプを集めることが必要になるので、お忘れなく!

10日目 Lugo-Ferreira (27km)

再び古代ローマの市壁をくぐるところから巡礼再開です。ルーゴの一晩が幻であったかのように山道林道に戻り、少なくとも私の時は20キロ弱歩かないと飲食店に辿り着けなかったので覚悟しておいてください。目的地としては、サン・ロマオ・ダ・レトルタとそこから数キロ進んだフェライラの二通りがあるかと思います。いずれにせよ翌日の目的地はメリデが順当なので、今日頑張るか明日頑張るかの違いです。どちらも町というよりアルベルゲに毛が生えたような場所ですが、バーではボリューミーなご飯をコスパ良く食べられることでしょう。

サラミや生ハムやチーズは特にその気がなくてもスペインに二週間いれば大量に摂取することになりますが、他におつまみとしておすすめしたいのはパドロンペッパーです。これはまさにガリシア州パドロンという地域に由来する辛味のない緑の唐辛子を素揚げした料理で、微妙な塩見苦味が病みつきになります。個人的にはししとうと区別がつかず、食べていてなんだか懐かしい気持ちになれるのもツボなポイントです。

11日目 Ferreira-Melide (21km)

この頃になると、古代の道沿いの自然風景にも目が慣れてきて、最初ほどの新鮮味は感じられなくなるかもしれません。連日の重労働で身体的な疲労も溜まってきて、ある種の中弛みというかなんとなく歩くのがしんどくなることもあるでしょうが、もう一踏ん張りです。

メリデは古代の道の宿場町としてはルーゴに次ぐ大きさです。ちょうどここが別の巡礼路、フランス人の道(Camino Francés)との合流地点になるため、一気に見知らぬ顔のバックパッカーが身の回りに増えます。最後の数日間になると古代の道ならではの静謐さや親密さが失われ、そこまで一緒に歩いてきた巡礼仲間ともなんだか寂しいねと話していました。

とはいえ、メリデは歩き回るには楽しい町です。中心部にサン・ペドロ教会というのがあり、美しい彩色彫刻を備えた祭壇を見られるので時間があればぜひ訪れてほしいのですが、私自身はちょうど2024年3月28日の聖木曜日に到着したため、この教会の中で磔刑のキリストの彫像の行進が行われるのを目撃することができました。イースター自体はどこの国でも祝われるでしょうが、特にカトリック圏のスペインではイースター当日より7日前から始まる聖週間(Santa Semana)の間ずっと国を挙げてのお祭り騒ぎとなり、飲食店のテレビで流れるニュースも各地での行進の様子の報道で持ち切りになるので、面白いものです。

12日目 Melide-O Pedrouzo (33km)

最後の2日間は、フランス人の道の巡礼者やルーゴから手頃に古代の道を始める現地のハイカーたちを含む大勢の道連れがいるので、迷子になる心配もあまりありません。サンチャゴに近付くにつれ町を通過する頻度が高くなり、特にこの日半分くらい歩いたところで行き当たるアルスアはメリデと同じくらい大きな町になります。なので普通に考えれば楽で便利な道程なのですが、私が歩いたときには途中雹に降られて心が折れかけました。

オ・ペドロウソは道路沿いにアルベルゲと飲食店を並べたような小さな場所ですが、なんと公営アルベルゲには200台ほどのベッドが用意されています。定員10-20人ほどの狭い部屋にぎゅうぎゅうに詰め込まれていたメリデ以前が遠い昔のように感じられますね。巡礼路上最後の夜も、たくさんご飯を食べてゆっくり休みましょう。

13日目 O Pedrouzo-Santiago de Compostela (20km)

いよいよ最終日、サンチャゴ観光に時間を残すためにも朝早く出発するのがおすすめです。この先の人生であまり見ることもないだろう、ホビットの世界のような山道を悔いのないよう味わいながら、最後の力を振り絞って歩きましょう。半分ほど歩いたところで通るラバコロの教会で巡礼手帳にスタンプも押してもらえるので、最終日の記念にぜひ。

残り5キロ地点ほどに着くと遠くにサンチャゴの町が見えるようになり、テンションが上がります。そこからはまず新市街を通り、そこから旧市街に入り、さらに奥の大聖堂を目指すといった形になるので意外と長くじれったく感じられるかもしれません。とはいえ、いやだからこそ、大聖堂の荘厳なファサードを目の端に捕らえたときの感動はひとしおです。その手前のオブラドイロ広場にも抱き合って喜びを分かち合っている巡礼者がたくさんいて、実際その場に辿り着いた者にしか分からないとしか言いようのない高揚感を共有することができるのではないでしょうか。

正直今の私たちにとっては巡礼の過程そのものが目的化してしまっている節がありますが、本来の巡礼の目的は聖ヤコブ崇敬です。ぜひ大聖堂の中に入り、主祭壇の下に眠る聖ヤコブの墓を参拝し、さらに主祭壇の中心に座る聖ヤコブの彫像に触れるという古来の慣行を体験してください(この流れはなんだか善光寺のお戒壇巡りと重なるものがあって面白いです)。そして、毎日午前7時30分から、正午から、および午後7時からの3回行われる巡礼者ミサにも参加しましょう。最終日の道程が快調に進めば、正午のミサに出席し、夜は市内のバーでゆっくり祝杯を上げるというのが綺麗な流れですね。ミサに関してはラテン語スペイン語のみで進み、特にキリスト教的儀式に慣れていない多くの日本人からしたら何が進行しているのかほぼ分からないかもしれませんが、適宜周りに合わせて行動しながら場の雰囲気を味わうだけで十分印象深い体験になると思います。長く過酷な巡礼路の後には大聖堂内部の豪華絢爛な装飾がことさらまばゆく見え、中世の人々の信仰心がこうした巡礼を通じて高められていった訳も分かるような気になります。

この日こそは(この日も?)存分に美味しいスペイン料理を食べお酒を飲み、二週間の修行を労いましょう。スペイン人の友達に教えてもらい実際私も気に入ったお店として、ここではantollos pinchos e viñosというピンチョスバーとMomoというパブを紹介しておきます。前者はガラスケースの中に並んださまざまな種類のピンチョスのうちから好きなものをセルフサービスで取り、食後に串の種類と数に応じた金額を支払う回転寿司のようなコンセプトのお店です。この一連の体験が面白いのは勿論、ピンチョスの味もバラエティもばっちり。後者のパブでは、とてもユニークでポップな内装のうちにビリヤード等のゲームの台まで置かれていて、一気に時空を超えて大都市に戻ったかのような錯覚を味わえます。

この街で宿に困ることはないと思いますが、余裕があればぜひ数日前にHospedaría San Martiño Pinarioの巡礼者用客室を予約してみてください。大聖堂のすぐ隣にある由緒ある見た目の建物のホテルで、ウェブサイトを通じて普通に予約するとお高めなのですが、メールで巡礼者であることを説明すると一泊29€でシングルルームに泊まることができます。なんと朝食ビュッフェも込みです。

サンチャゴの観光名所については調べれば日本語でもたくさんの情報が出てくると思うので多くは語りません。ただ一つ、大聖堂周辺の美術作品を観る上で面白いポイントとして聖ヤコブのルックスには三種類のバージョンがあるということを説明しておきます。一つ目は通常の使徒バージョン。二つ目は馬に乗って剣を振るう戦士バージョン、これはサンチャゴ・デ・コンポステラ周辺の北スペインで歴史的にムスリムとの戦い(レコンキスタ)が展開されてきたことに由来します。そして三つ目こそが巡礼者バージョン、この場合聖ヤコブは水筒代わりの瓢箪を結びつけた杖を持ち、帆立貝のついた鍔広帽子とマントを身に付けています。厳密に言えば聖ヤコブ自身は巡礼する側ではなくされる側なので彼が巡礼者として表象されるというのは変な話なのですが、まあそこはツッコまないお約束なのでしょう。ともあれこのモード変換、なんだかカービィみたいで可愛くないでしょうか。

おわりに

とまあ気ままにぐだぐだ書きましたが、サンチャゴ巡礼という体験は本当に言葉と写真だけでは伝えられません。ぜひ実際に自分の足で歩いて、自分の目で見てきてください。その際にここで書いた情報が何かの助けやスパイスになったら嬉しいです。

具象と抽象のあそびー新美マティス展

国立新美術館マティス 自由なフォルム』

またか、と思った人も多かっただろう。昨年夏の東京都美術館に引き続き、二度目の「マティス展」。しかし副題は異なる。都美では「The Path to Color」というように、作家のシンボルとも言える強烈な色彩に焦点が当てられていたのに対し、新美の展覧会では「自由なフォルム」という標題のもと、むしろ彼が素材を自在に加工して生み出した作品の形態が主題化されていた。結果、前者はマティスの代名詞とも言える「フォーヴィズム」の典型的イメージに適合するカンヴァス画を中心に据えていたのに対し、今回はむしろ切り絵や服飾、ステンドグラスや陶板画といった非伝統的なメディアを大々的に取り上げる展覧会となっている。正直こちらの方が開催上のコストは低く抑えられていそうだが、新美の柔軟なキュレーション力やホワイトキューブ的な展示空間とうまく融合することで、ステレオタイプから漏れ出るマティスの多様な創作理念を覗かせてくれる斬新な展覧会となっていたのではないだろうか。

冒頭では、既存の絵画技法との彼の対峙の過程が示されている。個別の対象を忠実に模倣する写実主義的な表現技法を美術学校で身につけたマティスが、やがて対象のまとまりのうちに感じ取られる情緒やその都度の人間の知覚における対象のあらわれ方といった印象派的的なテーマに関心を向けるようになったことは、《風車小屋の中庭、アジャクシオ》(1898)や《レ・グルグ》(1898)といった風景画から読み取れるだろう。前者の作品ではカンヴァス全体が黄土色で下塗りされることで地中海の温かい陽光が表現されているし、後者の作品では「木立と川面」というモネお馴染みのモチーフを通じ、リアルな自然物と水面上のその鏡像という同一の形態を持つ対象を色の彩度や筆触の密度を変数として描き分ける実験的な試みが展開されている。続く《マティス夫人の肖像》(1905)は、どこかアフリカ仮面に熱中していた時期のピカソを連想させるようでもあるが、立体的な人間の顔に映る影を手前から桃色、緑色、橙色によって描き分け、背景に青色を配置させるその表現には、それぞれの色が持つ視覚的効果に対する画家の興味が投影されていたと考えるのが妥当だろう。例えば人間の視覚に対して青色は後退する印象を、橙色は手前に迫り出す印象を与えるといった知識は東西問わず古くから芸術家の間で共有されていたものだが、本作品制作時のマティスは、対象の固有色から大胆に切り離す形でそうした特定の色の個性を引き出し、色彩のより自律的な戯れを画面上に実現させようとする試みの途上にあったのではないか。とはいえ、彼は当時の新印象派ほど厳密に色彩理論を翻案しようとしていた訳でもない。筆触分割に基づいて描かれた《日傘を持つ婦人》(1905)は確かにシニャックやスーラに触発されたものだが、これらの先人たちが科学的に立証された視覚混合効果を意図して対照的な色を並置していたのに対し、マティスはむしろ同系統の色をひとところにまとめ、そのうちで微妙なグラデーションを生み出す目的で点描を利用している。つまるところ、彼は同時代の絵画的動向に敏感に気を配りながらも、色彩と筆触をめぐる自らの造形的実験の触媒となる限りにおいてのみ、それらを選択的に摂取していたのだとまとめることができるだろう。

マティス夫人の肖像》(1905)、《日傘を持つ婦人》(1905)

ここまで画家の代名詞とも言える「フォーヴィズム」の絵画運動を定義付けるような色遣いに着目してきたが、展覧会の副題にもある「フォルム」=形態と絵画の関連に関しては何が言えるだろうか。私が今回の展示から感じたのは、マティスの絵にはそのイリュージョニズムを逆手に取った遊びが多い、ということである。分かりやすい例は《黄色いテーブルで読書する女》(1944)だろう。青い壁の室内で金髪で緑の服を着た女性が黄色いテーブルの上で本を読む、そうした具体的な想像を喚起する描写によって画面の大半は占められている。しかし右側に視線を移したとき、私たちはあれ、と思う。テーブル上に載せられたザクロや花瓶やワイングラスといった物体を表象すると思われる輪郭線があるものの、それらに私たちの想像する色合いが付与されていないからである。一般化して言えば、この種の作品では大枠の造形(とりわけ輪郭線の形態)によって絵画表現の具象性が示唆されているにも関わらず、ある種の非写実的な造形実験が介在することで終いにはその根源的な虚構性が露呈される結果となっているのである。そしてこうした写実性と虚構性の揺らぎから生まれる裏切りないしは驚きの感覚、それこそがマティス鑑賞の一つの醍醐味をなしていると言えるのではないだろうか。より複雑な例としては、少し年代を遡って《肘掛け椅子の裸婦、緑の植物》(1936)を観ても良い。これも先ほどと同様にシンプルな彩色の作品で、ぱっと眺めただけで、紫の壁紙、女性の白髪、紫の衣服、白いソファといったように、「白」と「紫」の二色が多様なモチーフに乗り移りながら大胆に交替していくさまが印象に残る。しかし、作品を間近に観察するとさらに二箇所で「白」がこっそり「紫」の脇に挿入されているのに気付かされるだろう。すなわち、一つは衣服の身体の黒い輪郭線と紫の彩色の間の余白、そしてもう一つは壁紙の上に刻まれた線描である。圧倒的な表面積を占める紫に対し僅かに挿入された白、という点では二箇所の色遣いは視覚的には似ている。しかし作品の具象性を前提とすれば、それらの意味合いは全く異なる。その場合、前者は単なる塗り残しとなり、後者は壁上に存在する絵という実際の指示対象を持つことになるからである。そしてさらには、これは両箇所における白と紫との関係性とを差異付ける結果をもたらしている。つまり、ゲシュタルト心理学の用語を用いれば、女性の衣服の表現においては白が土台=「地」、紫が具象的表現=「図」となるのに対し、壁上の肖像画の表現においては紫が土台=「地」、白が具象的表現=「図」となるのである。かくしてマティスの作品内では、物理的空間を指示するイリュージョニズムと、カンヴァス表面上での自律的・装飾的な造形といった両極的要素とが戯れ合うことで、観者が想像力を働かせるほどに多重化していく混沌が生じていると言えよう。

《黄色いテーブルで読書する女》(1944)、《肘掛け椅子の裸婦、緑の植物》(1936)

昨年夏にアーティゾン美術館で『ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開 セザンヌフォーヴィスムキュビスムから現代へ』展が開催された際、マティス周辺のフランス画家までもが「抽象絵画」という看板のもとに括られていることが一部の有識者の間で議論を呼んでいた。実際のところ、ロスコーやモンドリアン等の作品もマティスの作品も技巧的でない/写実的でない点で類似しているのは間違いなく、その意味ではこの展覧会のタイトルは少なくともインスタントに理解されやすい枠組みを提示することには成功していると言えるだろう。セザンヌにはじまった写実からの意図的な「ずらし」がマティス等を通じて拡張され、やがては画面全体を覆う抽象と化すというのは、シンプルな発展史的叙述である。しかし、その結果マティスの意義を単に伝統的な写実絵画から前衛的な抽象絵画への橋渡し役というところに落とし込んでしまうのは、今回の展覧会をふまえてもあまりに勿体無い。マティスの作品の旨味はむしろ、こうした具象性と非具象性との間に積極的に生み出された緊張状態のうちに存するからである。限定的な色彩と筆触のレパートリーのうちに統一された画面上で現実と虚構とが向かい鏡をなすように折り重なり合う、マティスの作品にはそうしたマジックが潜んでおり、その鍵となった彼の「自由なフォルム」を、今回の展覧会は存分に示してくれていただろう。自分の専門の都合上で結局絵画に限定した議論になってしまったが、展覧会で扱われていた多様なメディアをも視野に含めれば、その造形的実験の有するポテンシャルが計り知れないものであったのは間違いない。

世界のうちの異世界をいかに表現するか-都美印象派展

印象派 モネからアメリカへ ウスター美術館所蔵』

上野で「印象派」や「モネ」といった名が冠された展覧会を目にするのは何度目だろうか。今回の印象派展もまさかの上野の森美術館での「モネ展」と同時開催、それにも関わらず展示室内は客でいっぱいになっていて、日本人の間での19世紀フランス前衛美術人気を思い知らされた。とはいえ、展覧会名の中で控えめに伏線が張られているように、今回の主役は実は正統派のフランス印象派ではない。歩を進めるにつれ、むしろ印象派の技法を留学によって学び、帰国してのち故郷の風土に合うように独自の手法で発展させていった、アメリカにおける分派的存在の画家たちが展示室の大半を占拠していることに気付かされる。ややタイトル詐欺の感が否めないと個人的には思ってしまうのだが、しかし実際このアメリ印象派の作品は、新大陸の雄大な自然や開拓者精神と結び付くことで、フランスの本家には見られないようなダイナミックな表現へと行き着いており、独特の見どころがあった。

ともあれ、最初は王道のモネから。《税官吏の小屋・荒れた海》(1882)は、カンヴァスの大半を占める海の色彩表現が眺めていて最高に心地良い。国立西洋美術館所蔵の《睡蓮》(1916)と同様、モネの描く水面は、遠視したときには太陽光なり雲なり植物なりの自然物の反射を想像させるような、それなりに写実的な表現に見えるけれど、近視したときにはさまざまな色の絵の具の自足的な戯れに見えるのが秀逸。元々揺らぎを内包し形態の不明瞭なモチーフだからこそ、モネのような画家はそれを逆手にとって、写実という建前を保ちつつも色彩の実験を展開することができたのだろう。ところが、打って変わって《睡蓮》(1908)は非常に滑らかな筆致で塗り尽くされている。多くのモネの作品のようにその筆順を追体験することはもはや不可能で、観者はところどころ青・紫・緑・黄色といった色合いを予感させるばかりの境界線のないグラデーションに直面させられる。ただ画面各所に配された睡蓮のみが立体的な筆致を伴い前面に浮き出るような効果を与えているのだが、それがむしろ、それを取り囲む水面表現の平面性を強調させる結果をもたらしている。つまり、本作においてモネは、物理的な筆触の差異によって生じる「平面性」と「立体性」、「後退」と「前進」、「一体性」と「個別性」といった対照的な効果を用いながら、固体的・静止的なモチーフである睡蓮に対して池の水面を明確に対置させ、後者を静謐な表面のうちに底知れない奥深さを抱える統一的な運動体として特徴付けようとしたのだろう。水面というモチーフ一つとってもここまで多様な幅の表現を展開できる巨匠の技量に、改めて脱帽させられる思いがする。

《税官吏の小屋・荒れた海》(1882)、《睡蓮》(1908)

展示の後半になると、どんどんと舞台が地球規模に拡大していく。個人的には、印象派流の夢想的な女性や風景の表現を継承したこれらの作品群のうちに、しばしば宗教的・神話的な寓意が見受けられることが気になった。例えばアルフレッド・ステヴァンスの《母》(ca.1870)においては壁にかけられた十字架のモチーフを媒介項としてベッド上の母子が聖母子に重ね合わされているのが読み取れるし、アンデシュ・レオナード・ソーンの《オパール》(1891)においては川沿いの裸体の女性たちがどことなく神話上のニンフを想起させている。とりわけ後者の作品は、これらのミステリアスで官能的な女性像と、黄昏時の紫色の空を映し出す水面、または木漏れ日を投げかける木々の表現などが相まって、展示室内でもひときわ人目を引くような神秘性を醸し出している。しかし、全く同じ対象物が、より明確な色彩のコントラストとより厳密な輪郭線を以て描かれていたらどうだっただろう。その場合、おそらくこの作品は、単純に現実の川のそばで憩う現実の女性たちを描いた世俗画として解釈されていたのではないか。そう考えれば、上に指摘したようなヌードの女性たちとニンフの重ね合わせ、およびそれを支える作品全体の幻想的な情緒といったものは、あくまで印象派流の反写実的な表現技法を前提として成り立つものだったということになる。逆に言えば、穏やかな色彩や焦点の定まらない輪郭線、こうした印象派の築き上げた表現体系が、宗教や神話といった非現実的な世界観を視覚化するための触媒として異国で受容されていったのだという、興味深い結論を導き出すことができるだろう。

オパール》(1891)

アメリ印象派の作品は自然の風景画が大半を占めるが、チャイルド・ハッサムという画家は例外的に、ボストンを舞台とした多くの都市風景画や室内画を手掛けている。とりわけ秀逸なのは、画面の中にクリアで写実的な表現と印象派流の不明瞭な表現を対置させることで、世界の異なるあらわれ方を具現化する彼の手法である。例えば《コロンバス大通り、雨の日》(1885)では、前景の黒い馬車のみが明確な形態を与えられ、それ以外の景色が全てぼんやりとした輪郭線や溶け合うような色彩によって描かれることで、場面が雨降る街角であり、作者の位置から奥にゆくにつれ霧が立ち込め視界が不明瞭になっていくことが示唆されている。また、《朝食室、冬の朝、ニューヨーク》(1911)では、窓にかかるカーテンを境界面として、手前の女性や室内風景ははっきりとした色彩と輪郭線で、奥の都市風景は水色一色のぼんやりしたシルエットで描出され、現実の近景とカーテン越しの遠景との対比が明確に意識される結果をもたらしている。ここでは双方の作品とも、画面の一部に印象派流の技法を採用することで、霧やカーテンといったある種のフィルターがかかった世界を、フィルターのない生の世界との対照関係のうちに効果的に表現することに成功しているとまとめることができるだろう。

《コロンバス大通り、雨の日》(1885)、《朝食室、冬の朝、ニューヨーク》(1911)

ところで世紀転換期のアメリカでは、南北戦争後の混乱した社会情況からの安らぎを求め、落ち着いた色調によって主観的な内省世界を投影するトーナリズム(色調主義)と呼ばれる風景画が流行したという。ジョセフ・H・グリーンウッドの《雪どけ》(1918)も、そうした潮流に即する作品の一つとして理解できるだろう。丸裸の木々、分厚く積もった雪、水色に凍てついた川といったモチーフは、一見ニューイングランドの厳しい冬の寒さを連想させる。しかしながら、個々のモチーフの内部にまで目を凝らすと、暖色にきらめくような雪の表面や白のハイライトによって示唆される川面の輝きといった微妙な表現が、画題の通り来るべき春の季節を予感させてもいる。あくまで過酷な現実を写し取りつつ、その内部に崇高な恩寵への期待を織り交ぜる手法は、ヨーロッパのロマン主義にも通じるものと言えるだろう。そしてこうした夢想的な自然表現の完成形とも言えるのが、展覧会を締めくくるデヴィット・パーシャルの《ハーミット・クリーク・キャニオン》(1910-16)である。黒系統の色を全く使わず、影や輪郭線にさえ紫をはじめ明るい色を用いることで画面全体に夢見るような情緒性を与える手法は、画家が印象派の伝統から受け継いだものだろう。しかし本作品の見どころはそれだけではない。間近で見ると、遠景の山脈や空と、手前の山の岩肌や芝地の間で絶妙に異なる筆触が使い分けられているのがわかる。とはいえ、それはモネの風景画におけるように丁寧で写実的な筆致と雑駁で実験的な筆致が共存しているというのではない。そうではなく、画面全体があくまで丁寧に余白なく描き込み尽くされているものの、遠景の光景はフラットかつ滑らかに、対して手前の山の岩肌や芝地はカンヴァスの布地本来のざらざらした触感が残るように描かれているのである。これは見事に、一体混然とした眺望=「イメージ」として把握される遠景と、触覚的想像力を刺激するような「リアリティ」を有する近景といった対照的な性質と合致する。すなわち、ここではカンヴァスというメディウムの性格を完成作に残すことが、通常のように均一な筆触によってその特性を覆い隠すよりむしろ、グランドキャニオンという主題の迫真性を高める結果となっているのである。

なお、こうしたカンヴァスの質感を利用したモチーフの描き分けは、例えばジョン・ヘンリー・トワックマンの《滝》(ca.1890)にも観察されるものであった。ここでは、カンヴァスの凹凸のうち凸部分のみを塗り残すような筆遣いで青色の水流が描かれることで、ちょうどその浮き出た部分が白い水飛沫のように見えるようになっている。単に写真の如く現実を模倣する平面を生み出すでもない、しかし単に自律的な形態やメディウムの実験に傾くでもない。むしろカンヴァスの物理的条件や絵の具と筆によって実現可能な筆触・色調のスペクトラムの活用によって、自然界における多様な自然のあらわれ方をリアルに再現するこうした手法こそが、アメリ印象派の至った自然表現の極致であったと言えるだろう。

《滝》(ca.1890)

 

身体と記号の間のリミナリティーMOTアニュアル2023

MOTアニュアル2023 シナジー、創造と生成のあいだ』@東京都現代美術館

全体的に、身体性とデジタルの間のリミナリティに切り込む展示が目立った。数ヶ月前にはホックニーの絵画を空間いっぱいに陳列していた美術館だが、今回は都内の大学の理工系の研究室や日テレによるメタバース系の体験型作品まで登場し、その変化自体が「アート」と呼ばれる集合的営為の脱物質化を象徴する身振りとなっていた。

メディウムとしての身体・物質が持つ偶発性ー荒井美波

最初を飾るのは、古典文学に属するオリジナルの身体性を、逆説的にも最先端のデジタル技術を介することで取り戻した荒井美波の作品。太宰、漱石、三島といった文豪たちの直筆原稿を素材とした上で、その筆跡を針金で書き順通りに立体化し、「文字通り」原稿用紙から浮かび上がらせる。あまりに精緻な作業が求められるので3Dプリンタあってこそ構想可能な作品なのだが、その結果、むしろあらゆる技術の前段階にある作家の手わざに意識を向かわせる結果になっているのが卓抜だと感じた。そもそも、中世に遡れば文学とは写本によって伝搬されるものだった。そこでは、コンセプトとしての文字は、第一に作者の手からある写本家の手へ、そしてそこからさらに別の写本家の手へ、といったように、様々な人間の身体の間を通り抜け、その都度予期されていなかった微妙な変容を遂げていくことになる(書き言葉バージョンの伝言ゲームをやっているようなものなので、当然のことだが)。言い換えれば、作家が頭のうちで構想する理念としてのテクストがその存立において常に身体的なメディウムに依存する結果、テクストが本来持つ自己充足性が、身体の孕む偶発性に絶え間なく侵犯される事態が生じていたのである。こうして作者の統制を外れた攪拌を被ったテクストが、しばしばオリジナルに慣れ切った読者の意表をつくような趣向を見せ、それ自体単なる「複製」とは異なる価値を獲得するに至っていたことは、改めて論証する必要もないだろう。とはいえ、時代が下るにつれてこうした手作業の労力を省くための新技術が開発され、文学の複製プロセスはみるみる標準化されていった。コンセプトとしての文字に定形化された活字を一対一対応させた上で紙の上に文章を刷り込んでいく出版形態でさえ、電子書籍の普及する今日ではもはや時代遅れになりつつある。既出の語彙を用いるならば、「作家が頭のうちで構想する理念としてのテクスト」の「自己充足性」は、写本家の身体や紙といった物質的なメディウムの有する不確実性という脅威から守られ、無傷のまま読者のもとに届けられるようになっている。しかし、果たしてそれは見かけほど幸せなことなのだろうか?私たちは、「オリジナル」の「コンセプト」といったものに対して過保護になりすぎているのではないかーフィジカルな世界の持つ予測不可能性に、正面切って向き合る気概も時には必要なのではないだろうか。メタバースといった「デジタルの塔」をどれだけ高く築き上げたところで、結局私たちは己の身体の脈動によって生かされ、それが停止した瞬間に暴力的に世界から追放されるという運命を逃れることはできないのだから。

・抑圧された身体の脆弱性ー花形慎

花形慎のパフォーマンスは、観ていて得体の知れない不快感や不安感が喚起されるようなものだった。花形は、顔全体を布で覆い隠した上でヘッドマウントディスプレイを装着し、足先や腹部に取り付けたカメラから情報を入力することで、視覚の位置を転移させた人体の動きの再構築を試みる。幼児(あるいは動物)返りしたかのように四つん這いになりながら、突として馴染みのないものとなった世界との関係を築き直そうと街中で試行錯誤する彼の姿は、当然ながら周囲の好奇の目に晒される。そしてその大衆の困惑したような、嘲るような、あるいは顔を背けようとするような態度は、展示会場から記録映像を静かに見つめる私たちの心情を代理するもののように感じられる。普通に歩けば良いものを、なぜこの人物は無駄な辛苦に興じているのかーしかし、その疑問は反転可能だ。私たちこそ、他人事として放っておけば良いものを、なぜ彼の行いに心を掻き乱されてしまっているのかー別に彼が私たちの道を塞いでいる訳でもあるまいに。興味深いのは、観衆の中でも子供だけが大人とは異なる反応を示していることだ。彼らは花形を避けるどころか、話しかけたり撫でたりして積極的な交流を試みる。それは、花形の身振りに、発達途上の肢体の動かし方を覚える過程の最中にある自分たち自身に重なるものを感じ取るからかもしれない。そう、私たちも元を辿ればー個人レベルでは幼児、種レベルでは猿の段階までー花形のように、手探りで未知なる外界との関係を探り続ける存在であったはずだ。それがいつしか、人間の間でのみ共有される記号や通念や社会システムの内部に立て篭もり、野生の自然や動物を異質なる脅威として忌避するようになる。かつてフロイトは、「家郷的な」(heimlich)というドイツ語の中に反意語であるはずの「不気味な」(unheimlich)という単語の意味が含まれることを確認し、不気味さとは、慣れ親しんだものが無意識への抑圧を経て回帰してきたときに帯びる性格であること明らかにした。私たちが花形のパフォーマンスに対して感じる不気味さもまた、このようなものではないだろうか。普段は無意識の圧力によって忘却の淵に沈めている、人間存在の外界に対する従属性・脆弱性を想起させられることに、私たちは耐え難い不快感を覚えてしまうのではないだろうか。

・内部と外部の境界面ー友沢こたお

展示の最後に位置する友沢こたおの油彩画は、これまで議論してきたような、社会の記号的秩序と人間の根源的な身体性の間のリミナリティを象徴するものであるように感じられた。今回展示されていた作品はどれも、スライム状の物質が人間の女性の顔に絡み付く、夢想的とも不気味とも取れるようなイメージを描いている。スライムという素材の選択が絶妙だ。それは、プラスチックや木材ほど自立的・固定的でもなければ、水やゼリーほど不定形で流動的な訳でもない。異質な実体として自由に手に取ったり手放したりできるが、それでも一度触れると私たちの身体に微妙な痕跡を残すーなんとなくぬめぬめした感じ、といったように。私たちは、いつからかこの不可視な「ぬめぬめとした感じ」に対して潔癖になりすぎてしまったのかもしれない。自らの身体と切り離して思い通りに操作できる素材のみを道具として用い、自らの生命維持に不可欠な食材のみを身体内部に受容するような、白黒はっきりした振る舞いに終始し、その間に存在する不確実性や予測不可能性に対してあまりに脆弱になってしまっているのかもしれない。度重なるパンデミックや自然災害、それと並行して拡張していくデジタル世界。明確なYES/NOを突きつける代わりに、そうした社会の現実の根底に働く力学をめぐる思索を鑑賞者に促す、まさに「感性的なもののパルタージュ」に即した展覧会だったと言える。

リーグルとヴォリンガー:美術史の方法論

美術史の方法論

方法論をめぐる激しい対立は、美術史という学問の一つの特徴をなしている。もちろんどの人文系学問分野でも、一定程度共有された問題に対して「どのように取り組むべきか」は頻繁に議論の種となる。しかし、哲学のような思想系の学問にしろ歴史学のような実証系の学問にしろ、大抵「非経験的な思弁を通じて問題に回答を与える」「史料に立脚して客観的に反証可能な形で問題に回答を与える」といった大枠のルールに関しては共通了解があり、その上で生じる問題といえば、「どのような論理形式を採用するか」または「どのような視座で史料を読むか」といった類のものになる。しかし、美術史という学問で見られるのは、もっと根本的な次元の、いわば大枠のルールをめぐる対立である。「いかに美術作品を言語化するか」。それ自体は黙って佇むだけの作品を前に、我々はしばしば言葉に窮する。単なるがらくたとは言えない存在感を放つ、しかし社会の目的ー手段連関の中にも組み込めない、はみ出し者のようなそれを、一体どうすれば良いのか。それは、歴史上一度も合意を見たことがない「芸術とは何か」という問いにも関わる問題となる。

管見の限り、これまで提案されてきた美術の主要な方法論は以下の三つに分けることができる。第一に唯物論的・技術的アプローチ、第二に美学的アプローチ、第三に社会史的アプローチ。この中で唯物論的・技術的アプローチとは、使用目的・素材・技術といった物理的・実用的要因の所産として美術作品の成立を説明するもの。ゼンパーの継承者が採用したものとして、リーグルやヴォリンガーによってもしばしば槍玉に挙げられる。この立場に基けば、美術史は、その時々の物理的環境・条件を反映して受動的に生み出された作品群の歴史として、いわば能力史の性格を帯びることになる。次に美学的アプローチとは、美術を外的諸条件に左右されない自律的現象と捉え、特にその形式的諸要素(線・形態・色彩)における線的・統一的発展を想定するもの。ヴェルフリンに端を発しつつ、主にグリーンバーグやフリードといったモダニズムの批評家によって大成された。ここでは美術史は、線的・連続的な形態史として理解されていると言える。最後に社会史的アプローチとは、社会的・政治的・経済的文脈=「コンテクスト」と美術作品との間の相互関係に作品研究の土台を据えるもの。モダニズムの時代の美学的プローチ=フォーマリズムに対する反動から生まれた立場であり、T.J.クラークらによって推進された。美術作品を外的環境との連関の中に位置づける点では唯物論的・技術的アプローチと共通するが、物理的・視覚的諸要素よりはむしろ作品の構想における精神的・理念的諸要素に着目する点で異なる。ここで想定される美術史とは、時には社会のメディア、時には社会の鏡としての役割を果たしてきた作品群の機能史のようなものになるだろう。

しかし、いずれのアプローチも、それ単体では美術作品の特質を言語化するのに不十分であるように思われる。まず、唯物論的・技術的アプローチや社会史的アプローチは、美術が持つ固有の情緒的な魅力を捨象してしまう。前者は美術を単なる工芸品の一分類、後者は単なる視覚メディアと見做すことを意味するからである。一方で美学的アプローチは、なぜ特定の傾向を持つ作品が特定の社会で生み出されるのか、その必然性を説明することができない。その理論のもとでは、作品はまるで制作者の意図を介さずに気まぐれかつ自動的に移り変わっていくもののように感じられてしまう。

こうした不消化感を抱えていたところでたまたま遭遇したのが、リーグルの「芸術意志」およびヴォリンガーの「感情移入衝動」/「抽象衝動」の理論。それらは、唯物論的・技術的アプローチに強く反発しつつも、社会史的アプローチと美学的アプローチを融和させるかたちで、美術作品を説明するための新たな言語体系を構築する可能性を提示しているように感じられた。

リーグルの「芸術意志」

リーグルは、美術をその時々の材料・目的の無媒介的・直接的産物と見做す唯物論的・技術的理論を打破するため、各作品の根底にはその時々の世界観から説明することの可能な内的構造=「芸術意志」が存在することを指摘する。試みにイタリアの歴史画とオランダの集団肖像画を比較してみよう。前者においては、一部の人物が積極的参加者(=行動者)、残りの人物が受動的参加者(=傍観者)と役割付けられる形で全参加者が「一つ」の行為に統合される「従属」作用が働いている。これは各主体のレベルでは一つの「意志」衝動へと従う明確な肢体の動き、間主体的なレベルでは対角線によるシンメトリカルなピラミッド構図によって具現化されるものである。これに対して後者においては、人物像は見たところ互いに孤立しており、たとえ主要行為に関与する行動者とその他の傍観者を区分することができても、その間に統一感が存在しない。具体的な個物に関心を示さず視線の分散する主体たちが、連結する対角線なしに並列をなす単独な垂直軸として並び立つことで、全体として「平等」の関係が実現されている。しかし、これは決して単なる無秩序を意味するのではなく、むしろ人物像は外面的身体構図には反映されない「注視」衝動=外界と精神的に同化し心を捨てて埋没する態度によって統一され得ることが、注意深い鑑賞者によってのみ見てとられるのである。それでは、こうした様式的分析が社会史的アプローチといかに繋がるのか。リーグルによれば、これらの特徴は16・17世紀イタリア・オランダそれぞれの政治体制・哲学思想と密接に結び付いている。すなわちイタリアの歴史画における「従属」作用は当時支配的であった君主制の理念を反映し、オランダの集団肖像画における「平等」関係は当時の民主主義体制に呼応している(なお、イタリアの中でも例外的に君主制と共和制の複合政体を採用していたヴェネツィアでは、オランダに近い集団肖像画が生み出されている)。さらに言えば、前者における明確な「意志」と連動した身体表現は、ルネサンス以降の古代復興および人文主義の運動の中で、偶然に移ろい行く個人の肉体の特殊性に対する関心が高まったことを表す。が、これに対して後者における能動態と受動態を統合したような曖昧な「注視」の身体表現は、肉体的なものを唯一客観的な霊魂に対して移ろい行く主観的なものと見做す中世的な価値観がオランダにおいて残存していたことを示唆している。だからこそ鑑賞者には、その身体表現を精神の無媒介的な具体化と受け取るのではなく、自らの想像力を働かせながらその奥に潜む不動の精神性を読み取ることが求められるということになる。リーグルの議論はこれに留まらないが、この種の具体的な論証を積み重ねることで彼は、その時々の世界観に呼応する作品形式への潜在的・内的要求=「芸術意志」にまつわる自らの理論を一定の説得力をもって提示することに成功したと言える。

ヴォリンガーの「感情移入衝動」/「抽象衝動」

ヴォリンガーも、19世紀の唯物論的・技術的理論に対抗する意識から、リーグルの「芸術意志」概念を自らの議論の出発点に据えている。ただし彼の特殊なところは、あらゆる地域・時代の芸術表現を「感情移入衝動」・「抽象衝動」の二元論で説明しようとした点にある。いわく、(おそらくリーグルも含む)従来の美学・美術史は、現実の自然原型に接近および「感情移入」することを普遍的な芸術衝動と見做し、さまざまな様式をこの単一の衝動の変奏形として捉えてきた。しかし実際にはこのモデルから抜け落ちる美術作品が歴史上多く存在し、それらは、「感情移入衝動」のむしろ対極をなす「抽象衝動」によって説明されるべきである、というのが彼の主張の骨子となっている。

具体的な論証を追ってみよう。美術史上高い評価を受けてきた作品群、すなわち古代ギリシア=ローマ彫刻や近代西洋絵画は、生命の有機的な真実性に近迫する「自然主義」的表現によって特徴付けられる。注意すべきは単なる「模倣」との区別であり、自然の再現という点で共通していても、「模倣」とは自然物を形態の上で実物通りに描写する「知覚」の次元の行為であるのに対して、「自然主義」は有機的生命の持つ線・形・リズムなどを理想的な独立性・完全性において投射する創造的行為であり、それは「知覚」より進んだ「表象」の次元に属するものである。そして、こうした「表象」、すなわち純粋視覚的過程が示す視覚的諸要素の中から全体的なものを再構築する営為こそが、芸術を芸術たらしめる本質的要素ともなっている(この理由から、例えばラスコーの洞窟壁画のように最古代の原始民族が残した動物の再現的描写は、彼においては芸術の範疇から除かれることになる)。他方で、エジプト古王国や東方文化民族の諸美術は、こうした「自然主義」には適合しない。それらはむしろ、無機的な抽象性・合法則性、三次元性の廃棄、対象を相互に結合する空間描写の抑圧による単一形態の表現といった傾向によって特徴付けられる。むろん、何らかの全体性を志向した主体的な造形化という点で「模倣」でなく芸術の範疇に属することは間違いないのだが、しかしそれらは、有機的生命への迫真を本質とする従来の美術史のロジックによっては説明がつかないのである。こうした異端的とも言える無機的表現傾向を、ヴォリンガーは「様式」と名指している(ここで指示される意味が、「様式」という言葉の一般的定義と異なることは言うまでもない)。

そしてお察しのように、この「自然主義」と「様式」の二つの美術的傾向こそが、冒頭で挙げた「感情移入衝動」と「抽象衝動」にそれぞれ対応することになる。まず「感情移入衝動」とは、合理主義的な発展を遂げたことで外界=自然界に対して精神的支配力を有するに至った民族が、人間と外界の現象との間の幸福な汎神論的神話関係を前提として、自己を外界の物に沈潜することで幸福感を実現せんと望む衝動である。したがってこうした民族は、既述のように、外界に内在する線・形・リズムを理想化して再現する=「自然主義」化することで、人間内部における自然的・有機的なものへの志向性を満足させることを試みる。対して「抽象衝動」とは、無秩序で変化極まりなく混沌不測たる外界=自然界に対して精神的空間恐怖を抱える民族が、超越的な宗教観念を経由しつつ、外界の個物を存在の絶対的価値に引き寄せ、現象の流れに静止状態を見出すことで無限の安静を獲得せんと望む衝動である。この結果、彼らの美術は、自然物の恣意性・偶然性・複雑性を捨象し、知覚の際に個々人の悟性・習慣による助けを必要とする奥行表現およびその内部の個物を相対化する作用を持つ空間表現を廃棄し、必然的・固定的な幾何学的形式のみを具現化する=「様式」化するものとなる。これは鑑賞者に対しても、一定の明確な限界を持つ作品の中に没入することで、個人意識における無限の多様性からの解放=「自己放棄」を可能にするものだという。ヴォリンガーの議論はかなり大雑把なので実際多くの反例を提示し得るのは間違いないが、しかしそれが不思議と抗い難い説得力と魅力を有していることは否めないだろう。

再び美術史の方法論

美術作品は、死せると同時に生ける存在である。それは言葉を持たず、私たちが語りかけても決して応えることがない。一方で使い捨ての道具とは違い、時代や地域を隔ててもなお、私たちに対して何らかの求心力を放っている。だからこそ私たちはその魅力に言葉を与えんと望むのだが、その作業は一定の暴力性を孕んだものにならざるを得ない。死人に口なし。反論の余地を与えないまま、ただ私たちの言語をイメージに押し付けていくのが、美術史という営みなのではないだろうか。

だからこそ、この学問においては方法論をめぐる衝突が絶え間なく生じる。そのなかでも唯物論的・技術的アプローチというのは、作品のうちでも最も客観的に捉えることのできる物理的要素に焦点を絞ることで、エクフラシスの暴力性を極力排除する方法論だと言えるだろう。鑑賞者の主観に依存する印象を度外視し、物的証拠に立脚した因果関係を構築する。それは近代学問で重視される反証可能性も兼ね備えた、理想的な実証研究となる。しかし、既出の語彙を用いれば、それは美術を「使い捨ての道具」に矮小化する危険性を帯びている。そうではなく、やはり美術には一般的なモノの目的ー手段連関には組み込めない特別な力があるのではないか。この直感に対する一つの応答が、社会史的アプローチである。それは、美術をある種の特権的な視覚メディアと見做し、「美術がいかにその社会を表現したか」「美術がいかなるメッセージをその社会に提示したか」を明らかにする。とはいえこのアプローチは、美術に単なる道具以上の役割を認めこそすれ、特定のコンテクストの中に作品を位置付けることで、その価値を相対化する帰結をもたらしてしまう。そうではなく、美術が時代や地域を隔ててもなお発し続ける情緒的な魅力を説明する手段はないか。ここで美学的アプローチが正面に躍り出る。特定の社会的・政治的・経済的環境や物質的条件から切り離された形態の自律的発展を語ることで、どのようなバックグラウンドを持った鑑賞者にも等しく訴えかけることのできる、美術特有の魅力を明らかにすることへの希望が見出される。しかし、希望は希望のまま。ここで描き出される形態の目的論的・単線的発展史は、ごく限られた範囲の作品にしか適用することができないし、グリーンバーグやフリードの書き振りが典型であるように、一部の作品を「完成されたもの」、それ以外の作品を「発展途上/異端のもの」とする差別的な価値判断にも容易に陥りかねない。そもそも、外部環境から遮断された形態の自律的発生を唱える以上、それぞれの社会が持つ一定の造形的徴候さえ、単に偶然的なものと見做されざるを得なくなってしまう。

だから、美術作品を言語化する上で大事なのは、必ずしも客観的・実証的分析にそぐわない情緒的な印象に向き合い、それが特定の状況下で表現された必然性を追及しつつも、個別的記述に終始するよりはむしろイメージが人間に対して持つ普遍的な力をめぐるマクロな問題系と結び付けながら、各作品固有の意義を引き出していくことだと思う。言うは易し、という話かもしれない。しかしリーグルやヴォリンガーの理論は、こうした要求をふまえて従来の美術史の方法論を刷新していくための一つの可能性を提示するもののように感じられる。野心的な取り組みゆえの議論の乱雑さや強引さはあるが、そうしたツッコミどころの多さこそ、逆説的にその著作の偉大さを示しているのではないだろうか。

ヴィルヘルム・マイスターの修業時代

ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代(下)』山崎章甫訳、p.137-138

「修業証書」を好きに解釈してみる。

芸術は長く、人生は短い。

古代ギリシアヒポクラテスに遡る箴言から。日本では「少年老い易く学成り難し」という諺と対応させられることが多い。つまり一般的には、人間はあっという間に老いて死にゆくけれど、技芸を習得するには長い時間がかかる、という意味で理解されるフレーズ。

続く文章との繋がりからしてもこの解釈が自然かもしれないが、このフレーズ単体からは別の含意も引き出せる。つまり、個人の生涯は限定的で儚いが、外部化された営為たる芸術は、後世にまで妥当する普遍的な価値を持ち得るという意味。うろ覚えだが、ルネサンス美術の大パトロンであったコジモ・デ・メディチフィレンツェを追放される際に「人は移ろいやすい、しかし芸術は残る」と語った、まさにその意味もあるかもしれない。

判断は難く、機会は束の間である。行為は易しく、思考は難い。思考しながら行動するのは不快である。

人生の難題。判断=思考の要する「遅さ」と、機会=行為の要する「速さ」。あまり深く考えずに行動力だけでどんどん人生のコマを先に進めていく人もいれば、悩み症であるがゆえにどこかで停滞し続けてしまう人もいる。ヴィルヘルム自身は後者、ヴィルヘルムの周りの功利主義的な俳優たちや団長ゼルロは前者だと言える。これは私たちの普段の生活のなかでも、色んなことに当てはまると思う。

何より、年をとるにつれ、着実に自分の人生の選択肢は減っていく(特にキャリアの「レール」のようなものが強い拘束力を持つ現代社会では顕著な傾向だと思う)。しかし焦りに駆られて無思考に何かを選択してしまうと、取り返しのつかない事態に陥る危険もある。そんなジレンマのなかでどうにか選び取られてきた「今」を、最善の選択であったと断言できる人はきっと多くない。それに対して「どのような意思を持ってその進路を選択したのか」と当たり前に問うことは、ちょっと強引。

始まりはすべて楽しく、入口は期待の場である。少年は驚嘆し、印象は少年を決定する。少年は遊びつつ学び、真剣なるものは少年を驚かす。

人は、新鮮な物事には何でも容易に好奇心を駆り立てられる。そうして軽い気持ちでかぶりついたものの中に、先人たちによる底なしに深い知識や技術の蓄積を覗き見たとき、人は圧倒され、感銘を受け、「この世界に参与したい」という憧れを抱く。子供時代の夢のような観劇の思い出から、感傷的な気持ちで演劇の世界に没入するようになり、ふとしたきっかけからシェイクスピアを読んだことで、その果てしない深みにさらに引き込まれるようになったヴィルヘルムのように。

模倣は生得のものであるが、なにを模倣すべきかを知るのは容易ではない。適切なるものを見出すことは稀であり、それが評価されることはさらに稀である。

何でもかんでも貪欲に学べば良いという訳ではない。本であれ先達であれ、自分が真に見習うべき対象を見極められるようにならなければ、自分の最終的な成長には繋がらない。性善説的な信念から何に対しても好意的な解釈を示していたヴィルヘルムが、やがて諦観とも言えるような達観したものの見方を身に付けるようになるのは、まさにこの過程を示している。子供らしい水平な好奇心から離れて、大人らしい垂直な俯瞰視に移行していくというのは、不可逆でどこか寂しくもある成長の形だと思う。

山頂はわれわれの心をひらくが、そこに登る段階は心をひかない。われわれは山頂を仰ぎ見つつ、平地を歩むことを好む。

刺さる一言。輝かしい山頂に憧れるのは簡単だが、そこに至るまでのシーシュポス的な苦難に耐えることのできる人は限られている。

芸術の一部は学びうるが、芸術家はすべてを必要とする。芸術を半ばしか知らぬ者はつねに迷い、多くを語る。芸術を完全に所有する者は行為するのみで、語ることは稀であるか、あるいはあとで語る。前者は秘密をもたず、力をもたない。彼らの説くところは、焼いたパンの如く口あたりがよく、一日の飢えを満たすに足りる。しかし小麦粉を蒔くことはできず、穀種を碾いてはならない。

何にでも敷衍できる話。生半可な知識や技術を持つ中級者はそれをむやみに披瀝したがるどころか、それを持たない初級者を見下すことも多い。しかし、対象の全体像が把握できるようになるにつれ、自分の持てる知識や技術の相対的な位置付けが見え始めると、それを理由なしに外に出そうという気持ちは消え失せていく。前者は行動力や短期的な影響力だけは抜群に備えていて、ああだこうだと自説を開陳しながら他者を巻き込んでいくことはできる。しかし、長期的に見て他者の糧となるような教えを的確にもたらすことができるのは、後者のような人間である。作中では、今日のドイツ演劇がいかなるものであるべきか、すなわち観客の期待に応えるものであるべきか、観客をじっくり教化するものであるべきか、という議論においてこのような対立が現れていた。

言葉はよい。しかし言葉は最善のものではない。最善なものは言葉によっては明らかにならない。行為を生み出す精神が最高のものである。行為は精神によってのみ理解され、再現される。

精神が行為を生み出し、さらにその行為が精神によって理解され再現される、という循環構造に注意したい。まさにゲーテの芸術論においても繰り返される主張。つまり、過去の作品にはある種の生世界のようなものが身を潜めており、芸術家(またはそれを助ける美術史家)はそれを的確に読み取り、連続する地平上にある自らの生世界の表現に発展させることが求められる。

言葉と行為の関係に関しては、『ファウスト』の思想に重ねることもできないだろうか。ファウスト博士は学問を通じて世界の真理に到達することを目指したが、文献に溺れるだけの衒学者に幻滅してメフィストフェレスとの旅に出、最終的に行為の世界に求めていた答えを見出した。

誰も、正しく行為している時は、おのれの為すことを知らない。しかし正しくないことは、われわれは常に意識している。旗印をかかげることによってのみ行動する者は、衒学者か、偽善者か、あるいはいかさま師である。こうした者の数は多く、徒党を組むことを好む。彼らの饒舌は修業中の者をひるませる。彼らの頑固な凡庸主義は、最善の者をも不安におとしいれる。

「正しいこと」は何か明確な基準を以て積極的に理解または到達されるものではなく、「正しくないこと」を排する過程でいわば消去法的に、ぼんやりと捉えられるものである。逆に言えば、「正しいこととはこういうことだ」とあまりに明確な基準を掲げる者は、思考停止した独断論者でしかない。しかし悪質なことに、こうした人々は、自分の「正しさ」が外部からの批判的思考によって揺るがされることのないよう、多数派を形成して優勢を守る。実際に彼らが「正しさ」として掲げる武器は、初心者殺しの知識マウント(衒学者)や独断的なモラル(偽善者)や虚言(いかさま師)でしかないのだが。めっちゃ分かる。

真の芸術家の教えは核心を開示する。言葉の不足するところは、行為が語る。真の修業者は、既知のものから未知のものを展開することを学び、かくて、師に近づく。

今まで述べてきたことと重ねて考えれば、芸術表現の底に眠る「核心」とは、芸術家自らの生世界に対する深い思慮や理解(=精神)。そして優れた後進は、こうした作品の外面的要素(≒言葉?)を単に模倣するのではなく、この精神を理解し吸収した上で、自分の生世界を表現する新たな芸術様式を生み出すことができる、ということだろう。