身体と記号の間のリミナリティーMOTアニュアル2023

MOTアニュアル2023 シナジー、創造と生成のあいだ』@東京都現代美術館

全体的に、身体性とデジタルの間のリミナリティに切り込む展示が目立った。数ヶ月前にはホックニーの絵画を空間いっぱいに陳列していた美術館だが、今回は都内の大学の理工系の研究室や日テレによるメタバース系の体験型作品まで登場し、その変化自体が「アート」と呼ばれる集合的営為の脱物質化を象徴する身振りとなっていた。

メディウムとしての身体・物質が持つ偶発性ー荒井美波

最初を飾るのは、古典文学に属するオリジナルの身体性を、逆説的にも最先端のデジタル技術を介することで取り戻した荒井美波の作品。太宰、漱石、三島といった文豪たちの直筆原稿を素材とした上で、その筆跡を針金で書き順通りに立体化し、「文字通り」原稿用紙から浮かび上がらせる。あまりに精緻な作業が求められるので3Dプリンタあってこそ構想可能な作品なのだが、その結果、むしろあらゆる技術の前段階にある作家の手わざに意識を向かわせる結果になっているのが卓抜だと感じた。そもそも、中世に遡れば文学とは写本によって伝搬されるものだった。そこでは、コンセプトとしての文字は、第一に作者の手からある写本家の手へ、そしてそこからさらに別の写本家の手へ、といったように、様々な人間の身体の間を通り抜け、その都度予期されていなかった微妙な変容を遂げていくことになる(書き言葉バージョンの伝言ゲームをやっているようなものなので、当然のことだが)。言い換えれば、作家が頭のうちで構想する理念としてのテクストがその存立において常に身体的なメディウムに依存する結果、テクストが本来持つ自己充足性が、身体の孕む偶発性に絶え間なく侵犯される事態が生じていたのである。こうして作者の統制を外れた攪拌を被ったテクストが、しばしばオリジナルに慣れ切った読者の意表をつくような趣向を見せ、それ自体単なる「複製」とは異なる価値を獲得するに至っていたことは、改めて論証する必要もないだろう。とはいえ、時代が下るにつれてこうした手作業の労力を省くための新技術が開発され、文学の複製プロセスはみるみる標準化されていった。コンセプトとしての文字に定形化された活字を一対一対応させた上で紙の上に文章を刷り込んでいく出版形態でさえ、電子書籍の普及する今日ではもはや時代遅れになりつつある。既出の語彙を用いるならば、「作家が頭のうちで構想する理念としてのテクスト」の「自己充足性」は、写本家の身体や紙といった物質的なメディウムの有する不確実性という脅威から守られ、無傷のまま読者のもとに届けられるようになっている。しかし、果たしてそれは見かけほど幸せなことなのだろうか?私たちは、「オリジナル」の「コンセプト」といったものに対して過保護になりすぎているのではないかーフィジカルな世界の持つ予測不可能性に、正面切って向き合る気概も時には必要なのではないだろうか。メタバースといった「デジタルの塔」をどれだけ高く築き上げたところで、結局私たちは己の身体の脈動によって生かされ、それが停止した瞬間に暴力的に世界から追放されるという運命を逃れることはできないのだから。

・抑圧された身体の脆弱性ー花形慎

花形慎のパフォーマンスは、観ていて得体の知れない不快感や不安感が喚起されるようなものだった。花形は、顔全体を布で覆い隠した上でヘッドマウントディスプレイを装着し、足先や腹部に取り付けたカメラから情報を入力することで、視覚の位置を転移させた人体の動きの再構築を試みる。幼児(あるいは動物)返りしたかのように四つん這いになりながら、突として馴染みのないものとなった世界との関係を築き直そうと街中で試行錯誤する彼の姿は、当然ながら周囲の好奇の目に晒される。そしてその大衆の困惑したような、嘲るような、あるいは顔を背けようとするような態度は、展示会場から記録映像を静かに見つめる私たちの心情を代理するもののように感じられる。普通に歩けば良いものを、なぜこの人物は無駄な辛苦に興じているのかーしかし、その疑問は反転可能だ。私たちこそ、他人事として放っておけば良いものを、なぜ彼の行いに心を掻き乱されてしまっているのかー別に彼が私たちの道を塞いでいる訳でもあるまいに。興味深いのは、観衆の中でも子供だけが大人とは異なる反応を示していることだ。彼らは花形を避けるどころか、話しかけたり撫でたりして積極的な交流を試みる。それは、花形の身振りに、発達途上の肢体の動かし方を覚える過程の最中にある自分たち自身に重なるものを感じ取るからかもしれない。そう、私たちも元を辿ればー個人レベルでは幼児、種レベルでは猿の段階までー花形のように、手探りで未知なる外界との関係を探り続ける存在であったはずだ。それがいつしか、人間の間でのみ共有される記号や通念や社会システムの内部に立て篭もり、野生の自然や動物を異質なる脅威として忌避するようになる。かつてフロイトは、「家郷的な」(heimlich)というドイツ語の中に反意語であるはずの「不気味な」(unheimlich)という単語の意味が含まれることを確認し、不気味さとは、慣れ親しんだものが無意識への抑圧を経て回帰してきたときに帯びる性格であること明らかにした。私たちが花形のパフォーマンスに対して感じる不気味さもまた、このようなものではないだろうか。普段は無意識の圧力によって忘却の淵に沈めている、人間存在の外界に対する従属性・脆弱性を想起させられることに、私たちは耐え難い不快感を覚えてしまうのではないだろうか。

・内部と外部の境界面ー友沢こたお

展示の最後に位置する友沢こたおの油彩画は、これまで議論してきたような、社会の記号的秩序と人間の根源的な身体性の間のリミナリティを象徴するものであるように感じられた。今回展示されていた作品はどれも、スライム状の物質が人間の女性の顔に絡み付く、夢想的とも不気味とも取れるようなイメージを描いている。スライムという素材の選択が絶妙だ。それは、プラスチックや木材ほど自立的・固定的でもなければ、水やゼリーほど不定形で流動的な訳でもない。異質な実体として自由に手に取ったり手放したりできるが、それでも一度触れると私たちの身体に微妙な痕跡を残すーなんとなくぬめぬめした感じ、といったように。私たちは、いつからかこの不可視な「ぬめぬめとした感じ」に対して潔癖になりすぎてしまったのかもしれない。自らの身体と切り離して思い通りに操作できる素材のみを道具として用い、自らの生命維持に不可欠な食材のみを身体内部に受容するような、白黒はっきりした振る舞いに終始し、その間に存在する不確実性や予測不可能性に対してあまりに脆弱になってしまっているのかもしれない。度重なるパンデミックや自然災害、それと並行して拡張していくデジタル世界。明確なYES/NOを突きつける代わりに、そうした社会の現実の根底に働く力学をめぐる思索を鑑賞者に促す、まさに「感性的なもののパルタージュ」に即した展覧会だったと言える。