具象と抽象のあそびー新美マティス展

国立新美術館マティス 自由なフォルム』

またか、と思った人も多かっただろう。昨年夏の東京都美術館に引き続き、二度目の「マティス展」。しかし副題は異なる。都美では「The Path to Color」というように、作家のシンボルとも言える強烈な色彩に焦点が当てられていたのに対し、新美の展覧会では「自由なフォルム」という標題のもと、むしろ彼が素材を自在に加工して生み出した作品の形態が主題化されていた。結果、前者はマティスの代名詞とも言える「フォーヴィズム」の典型的イメージに適合するカンヴァス画を中心に据えていたのに対し、今回はむしろ切り絵や服飾、ステンドグラスや陶板画といった非伝統的なメディアを大々的に取り上げる展覧会となっている。正直こちらの方が開催上のコストは低く抑えられていそうだが、新美の柔軟なキュレーション力やホワイトキューブ的な展示空間とうまく融合することで、ステレオタイプから漏れ出るマティスの多様な創作理念を覗かせてくれる斬新な展覧会となっていたのではないだろうか。

冒頭では、既存の絵画技法との彼の対峙の過程が示されている。個別の対象を忠実に模倣する写実主義的な表現技法を美術学校で身につけたマティスが、やがて対象のまとまりのうちに感じ取られる情緒やその都度の人間の知覚における対象のあらわれ方といった印象派的的なテーマに関心を向けるようになったことは、《風車小屋の中庭、アジャクシオ》(1898)や《レ・グルグ》(1898)といった風景画から読み取れるだろう。前者の作品ではカンヴァス全体が黄土色で下塗りされることで地中海の温かい陽光が表現されているし、後者の作品では「木立と川面」というモネお馴染みのモチーフを通じ、リアルな自然物と水面上のその鏡像という同一の形態を持つ対象を色の彩度や筆触の密度を変数として描き分ける実験的な試みが展開されている。続く《マティス夫人の肖像》(1905)は、どこかアフリカ仮面に熱中していた時期のピカソを連想させるようでもあるが、立体的な人間の顔に映る影を手前から桃色、緑色、橙色によって描き分け、背景に青色を配置させるその表現には、それぞれの色が持つ視覚的効果に対する画家の興味が投影されていたと考えるのが妥当だろう。例えば人間の視覚に対して青色は後退する印象を、橙色は手前に迫り出す印象を与えるといった知識は東西問わず古くから芸術家の間で共有されていたものだが、本作品制作時のマティスは、対象の固有色から大胆に切り離す形でそうした特定の色の個性を引き出し、色彩のより自律的な戯れを画面上に実現させようとする試みの途上にあったのではないか。とはいえ、彼は当時の新印象派ほど厳密に色彩理論を翻案しようとしていた訳でもない。筆触分割に基づいて描かれた《日傘を持つ婦人》(1905)は確かにシニャックやスーラに触発されたものだが、これらの先人たちが科学的に立証された視覚混合効果を意図して対照的な色を並置していたのに対し、マティスはむしろ同系統の色をひとところにまとめ、そのうちで微妙なグラデーションを生み出す目的で点描を利用している。つまるところ、彼は同時代の絵画的動向に敏感に気を配りながらも、色彩と筆触をめぐる自らの造形的実験の触媒となる限りにおいてのみ、それらを選択的に摂取していたのだとまとめることができるだろう。

マティス夫人の肖像》(1905)、《日傘を持つ婦人》(1905)

ここまで画家の代名詞とも言える「フォーヴィズム」の絵画運動を定義付けるような色遣いに着目してきたが、展覧会の副題にもある「フォルム」=形態と絵画の関連に関しては何が言えるだろうか。私が今回の展示から感じたのは、マティスの絵にはそのイリュージョニズムを逆手に取った遊びが多い、ということである。分かりやすい例は《黄色いテーブルで読書する女》(1944)だろう。青い壁の室内で金髪で緑の服を着た女性が黄色いテーブルの上で本を読む、そうした具体的な想像を喚起する描写によって画面の大半は占められている。しかし右側に視線を移したとき、私たちはあれ、と思う。テーブル上に載せられたザクロや花瓶やワイングラスといった物体を表象すると思われる輪郭線があるものの、それらに私たちの想像する色合いが付与されていないからである。一般化して言えば、この種の作品では大枠の造形(とりわけ輪郭線の形態)によって絵画表現の具象性が示唆されているにも関わらず、ある種の非写実的な造形実験が介在することで終いにはその根源的な虚構性が露呈される結果となっているのである。そしてこうした写実性と虚構性の揺らぎから生まれる裏切りないしは驚きの感覚、それこそがマティス鑑賞の一つの醍醐味をなしていると言えるのではないだろうか。より複雑な例としては、少し年代を遡って《肘掛け椅子の裸婦、緑の植物》(1936)を観ても良い。これも先ほどと同様にシンプルな彩色の作品で、ぱっと眺めただけで、紫の壁紙、女性の白髪、紫の衣服、白いソファといったように、「白」と「紫」の二色が多様なモチーフに乗り移りながら大胆に交替していくさまが印象に残る。しかし、作品を間近に観察するとさらに二箇所で「白」がこっそり「紫」の脇に挿入されているのに気付かされるだろう。すなわち、一つは衣服の身体の黒い輪郭線と紫の彩色の間の余白、そしてもう一つは壁紙の上に刻まれた線描である。圧倒的な表面積を占める紫に対し僅かに挿入された白、という点では二箇所の色遣いは視覚的には似ている。しかし作品の具象性を前提とすれば、それらの意味合いは全く異なる。その場合、前者は単なる塗り残しとなり、後者は壁上に存在する絵という実際の指示対象を持つことになるからである。そしてさらには、これは両箇所における白と紫との関係性とを差異付ける結果をもたらしている。つまり、ゲシュタルト心理学の用語を用いれば、女性の衣服の表現においては白が土台=「地」、紫が具象的表現=「図」となるのに対し、壁上の肖像画の表現においては紫が土台=「地」、白が具象的表現=「図」となるのである。かくしてマティスの作品内では、物理的空間を指示するイリュージョニズムと、カンヴァス表面上での自律的・装飾的な造形といった両極的要素とが戯れ合うことで、観者が想像力を働かせるほどに多重化していく混沌が生じていると言えよう。

《黄色いテーブルで読書する女》(1944)、《肘掛け椅子の裸婦、緑の植物》(1936)

昨年夏にアーティゾン美術館で『ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開 セザンヌフォーヴィスムキュビスムから現代へ』展が開催された際、マティス周辺のフランス画家までもが「抽象絵画」という看板のもとに括られていることが一部の有識者の間で議論を呼んでいた。実際のところ、ロスコーやモンドリアン等の作品もマティスの作品も技巧的でない/写実的でない点で類似しているのは間違いなく、その意味ではこの展覧会のタイトルは少なくともインスタントに理解されやすい枠組みを提示することには成功していると言えるだろう。セザンヌにはじまった写実からの意図的な「ずらし」がマティス等を通じて拡張され、やがては画面全体を覆う抽象と化すというのは、シンプルな発展史的叙述である。しかし、その結果マティスの意義を単に伝統的な写実絵画から前衛的な抽象絵画への橋渡し役というところに落とし込んでしまうのは、今回の展覧会をふまえてもあまりに勿体無い。マティスの作品の旨味はむしろ、こうした具象性と非具象性との間に積極的に生み出された緊張状態のうちに存するからである。限定的な色彩と筆触のレパートリーのうちに統一された画面上で現実と虚構とが向かい鏡をなすように折り重なり合う、マティスの作品にはそうしたマジックが潜んでおり、その鍵となった彼の「自由なフォルム」を、今回の展覧会は存分に示してくれていただろう。自分の専門の都合上で結局絵画に限定した議論になってしまったが、展覧会で扱われていた多様なメディアをも視野に含めれば、その造形的実験の有するポテンシャルが計り知れないものであったのは間違いない。