ヴィルヘルム・マイスターの修業時代

ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代(下)』山崎章甫訳、p.137-138

「修業証書」を好きに解釈してみる。

芸術は長く、人生は短い。

古代ギリシアヒポクラテスに遡る箴言から。日本では「少年老い易く学成り難し」という諺と対応させられることが多い。つまり一般的には、人間はあっという間に老いて死にゆくけれど、技芸を習得するには長い時間がかかる、という意味で理解されるフレーズ。

続く文章との繋がりからしてもこの解釈が自然かもしれないが、このフレーズ単体からは別の含意も引き出せる。つまり、個人の生涯は限定的で儚いが、外部化された営為たる芸術は、後世にまで妥当する普遍的な価値を持ち得るという意味。うろ覚えだが、ルネサンス美術の大パトロンであったコジモ・デ・メディチフィレンツェを追放される際に「人は移ろいやすい、しかし芸術は残る」と語った、まさにその意味もあるかもしれない。

判断は難く、機会は束の間である。行為は易しく、思考は難い。思考しながら行動するのは不快である。

人生の難題。判断=思考の要する「遅さ」と、機会=行為の要する「速さ」。あまり深く考えずに行動力だけでどんどん人生のコマを先に進めていく人もいれば、悩み症であるがゆえにどこかで停滞し続けてしまう人もいる。ヴィルヘルム自身は後者、ヴィルヘルムの周りの功利主義的な俳優たちや団長ゼルロは前者だと言える。これは私たちの普段の生活のなかでも、色んなことに当てはまると思う。

何より、年をとるにつれ、着実に自分の人生の選択肢は減っていく(特にキャリアの「レール」のようなものが強い拘束力を持つ現代社会では顕著な傾向だと思う)。しかし焦りに駆られて無思考に何かを選択してしまうと、取り返しのつかない事態に陥る危険もある。そんなジレンマのなかでどうにか選び取られてきた「今」を、最善の選択であったと断言できる人はきっと多くない。それに対して「どのような意思を持ってその進路を選択したのか」と当たり前に問うことは、ちょっと強引。

始まりはすべて楽しく、入口は期待の場である。少年は驚嘆し、印象は少年を決定する。少年は遊びつつ学び、真剣なるものは少年を驚かす。

人は、新鮮な物事には何でも容易に好奇心を駆り立てられる。そうして軽い気持ちでかぶりついたものの中に、先人たちによる底なしに深い知識や技術の蓄積を覗き見たとき、人は圧倒され、感銘を受け、「この世界に参与したい」という憧れを抱く。子供時代の夢のような観劇の思い出から、感傷的な気持ちで演劇の世界に没入するようになり、ふとしたきっかけからシェイクスピアを読んだことで、その果てしない深みにさらに引き込まれるようになったヴィルヘルムのように。

模倣は生得のものであるが、なにを模倣すべきかを知るのは容易ではない。適切なるものを見出すことは稀であり、それが評価されることはさらに稀である。

何でもかんでも貪欲に学べば良いという訳ではない。本であれ先達であれ、自分が真に見習うべき対象を見極められるようにならなければ、自分の最終的な成長には繋がらない。性善説的な信念から何に対しても好意的な解釈を示していたヴィルヘルムが、やがて諦観とも言えるような達観したものの見方を身に付けるようになるのは、まさにこの過程を示している。子供らしい水平な好奇心から離れて、大人らしい垂直な俯瞰視に移行していくというのは、不可逆でどこか寂しくもある成長の形だと思う。

山頂はわれわれの心をひらくが、そこに登る段階は心をひかない。われわれは山頂を仰ぎ見つつ、平地を歩むことを好む。

刺さる一言。輝かしい山頂に憧れるのは簡単だが、そこに至るまでのシーシュポス的な苦難に耐えることのできる人は限られている。

芸術の一部は学びうるが、芸術家はすべてを必要とする。芸術を半ばしか知らぬ者はつねに迷い、多くを語る。芸術を完全に所有する者は行為するのみで、語ることは稀であるか、あるいはあとで語る。前者は秘密をもたず、力をもたない。彼らの説くところは、焼いたパンの如く口あたりがよく、一日の飢えを満たすに足りる。しかし小麦粉を蒔くことはできず、穀種を碾いてはならない。

何にでも敷衍できる話。生半可な知識や技術を持つ中級者はそれをむやみに披瀝したがるどころか、それを持たない初級者を見下すことも多い。しかし、対象の全体像が把握できるようになるにつれ、自分の持てる知識や技術の相対的な位置付けが見え始めると、それを理由なしに外に出そうという気持ちは消え失せていく。前者は行動力や短期的な影響力だけは抜群に備えていて、ああだこうだと自説を開陳しながら他者を巻き込んでいくことはできる。しかし、長期的に見て他者の糧となるような教えを的確にもたらすことができるのは、後者のような人間である。作中では、今日のドイツ演劇がいかなるものであるべきか、すなわち観客の期待に応えるものであるべきか、観客をじっくり教化するものであるべきか、という議論においてこのような対立が現れていた。

言葉はよい。しかし言葉は最善のものではない。最善なものは言葉によっては明らかにならない。行為を生み出す精神が最高のものである。行為は精神によってのみ理解され、再現される。

精神が行為を生み出し、さらにその行為が精神によって理解され再現される、という循環構造に注意したい。まさにゲーテの芸術論においても繰り返される主張。つまり、過去の作品にはある種の生世界のようなものが身を潜めており、芸術家(またはそれを助ける美術史家)はそれを的確に読み取り、連続する地平上にある自らの生世界の表現に発展させることが求められる。

言葉と行為の関係に関しては、『ファウスト』の思想に重ねることもできないだろうか。ファウスト博士は学問を通じて世界の真理に到達することを目指したが、文献に溺れるだけの衒学者に幻滅してメフィストフェレスとの旅に出、最終的に行為の世界に求めていた答えを見出した。

誰も、正しく行為している時は、おのれの為すことを知らない。しかし正しくないことは、われわれは常に意識している。旗印をかかげることによってのみ行動する者は、衒学者か、偽善者か、あるいはいかさま師である。こうした者の数は多く、徒党を組むことを好む。彼らの饒舌は修業中の者をひるませる。彼らの頑固な凡庸主義は、最善の者をも不安におとしいれる。

「正しいこと」は何か明確な基準を以て積極的に理解または到達されるものではなく、「正しくないこと」を排する過程でいわば消去法的に、ぼんやりと捉えられるものである。逆に言えば、「正しいこととはこういうことだ」とあまりに明確な基準を掲げる者は、思考停止した独断論者でしかない。しかし悪質なことに、こうした人々は、自分の「正しさ」が外部からの批判的思考によって揺るがされることのないよう、多数派を形成して優勢を守る。実際に彼らが「正しさ」として掲げる武器は、初心者殺しの知識マウント(衒学者)や独断的なモラル(偽善者)や虚言(いかさま師)でしかないのだが。めっちゃ分かる。

真の芸術家の教えは核心を開示する。言葉の不足するところは、行為が語る。真の修業者は、既知のものから未知のものを展開することを学び、かくて、師に近づく。

今まで述べてきたことと重ねて考えれば、芸術表現の底に眠る「核心」とは、芸術家自らの生世界に対する深い思慮や理解(=精神)。そして優れた後進は、こうした作品の外面的要素(≒言葉?)を単に模倣するのではなく、この精神を理解し吸収した上で、自分の生世界を表現する新たな芸術様式を生み出すことができる、ということだろう。